蕎麦屋
ふらりと入った目黒の蕎麦屋。
蕎麦屋だとわかりにくい店構え。
何度も前を通っているのにそこに店があることすら知りませんでした。
しかし扉を開ければ変わる空気。
入っただけで安心してしまう老舗の静かな佇まい。
思わず深呼吸すると、だしの香りがほのかに鼻を抜けていきました。
カウンターとテーブル2つしかないこじんまりとした店内。
驚いたのはカウンターの中にいる店主が僕と同い年ぐらいの若い青年だったこと。
しかしその締まった表情はすでに「職人」の顔立ち。
代々継がれてきたこの老舗蕎麦屋の「今」を任された若き大将のようです。
カウンターには白髪の老人が座り天ぷら蕎麦をすすっておられました。
どこか緊張気味にその老人の表情を気にしている様子の大将。
僕が店に入ってきた事にまだ気づいていません。
それ程までに集中しています。
僕もこの緊張感あふれる空間に声を出す事もできず、奥の席からただじっと見守っていました。
そして
ゆっくりとだしを飲みきった老人が少し微笑み、大将に向かってこう言いました。
「俺がお前のだしを飲みきったのは…初めてだな。…ようやく先代の味になった…」
その言葉を聞いた瞬間、大将は頭を深々と下げ「ありがとうございます!」と大声で伝えました。
ドラマのような一幕。しかもなんて感動的なシーン。
きっとこのご老人は先代からの常連。しかし何らかの理由で先代はいなくなってしまった。突然店を任された青年。しかし先代の味が出ない。同じ材料や工程をたどっているのに先代とは何かが違う。何かが足りない。
ご老人がだしを一口だけ飲んで首を傾げ「お勘定」と言った日もあっただろう。
それでも腐らずに努力を続けた若大将。そんな男をほっとけず通い続けたご老人。
長い年月を経て、ついに今その味が認められた!
そしてその瞬間に立ち合ってしまった全く関係の無い僕!
しばらくその光景を見守っていました。
すると大将がようやくこちらに気づき駆け寄ってきました。
「遅くなってすいません。ご注文は?」
「天ぷらそばお願いします」
当然ご老人が食べておられたものを注文。
15分後、揚げたての海老天が乗った蕎麦が運ばれてきました。
海老天をだしにつけるとジューッといい音がします。
まずは大事にゆっくりとだしをのみました。
まずい
え?…あれ?
蕎麦をすすっても
まずい。
色んな意味で忘れられない蕎麦屋です。